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はた迷惑の受身(「雨に降られる」「息子に死なれる」) [ヴォイス]
日本語の受身文には他言語にはない珍しい受身文があると言われています。
(1) 昨日は,雨に降られて,さんざんだった。
(2) いっしょに行こうと思ってたのに,(亜矢子に)先に行かれちゃったよ。
上のような受身文は,例えば英語で「I was rained」とか「I've been gone by Ayako」とか言うことは不可能です。
通常の受身文というのは,他動詞から作られるのが基本で,
(3) a. 亜矢子が秀男をたたいた。《能動文》
b. 秀男が亜矢子にたたかれた。《受動文》
のように,他動詞文の目的語だった被動者が主語になって,他動詞文の主語だった動作主が主語から退くというのがさまざまな言語で受動態と了解されている現象です。
ところが,日本語には,先の(1)(2)のように,対応する基本文「雨が降る」「亜矢子が先に行く」という事態には参与していなかった新たな第3者が,はた迷惑を被った人として主語に立つ,という面白い受身文があるわけですね(「*雨が私に降る」とは言わないから)。これは,「第3者の受身」とか,「はた迷惑の受身」とか,統語論では「間接受動文」とか呼ばれるものです。(これらの外延が完全に重なるわけではありませんが)
この「はた迷惑の受身」を日本語受身文の1タイプとして打ち立てたのは三上章(with佐久間鼎)という,彼自身ちょっと風変わりな言語学者だったんですが,それが1950年ごろで,それ以降,半世紀にわたって,特に変形生成文法の論者たちが好んでこの現象を取り上げ,激しい論争を繰り広げてきました。
「日本語には英語にはない変な受身文があるぞ!」
というんでみんなが興味を持ったんでしょうね。
ちなみに,「雨に降られる」というのは,英語では難しいかもしれないけど,スペイン語やドイツ語などには相当表現があります。受身文とは違いますが,「ethical dative」と呼ばれる間接目的語のような語を投入する表現です。
(1) Me llovió, (雨が私に降った=雨に降られた)
(2) Me murió el perro. (飼い犬が私に死んだ=飼い犬に死なれた)
「me(私に)」というのは,通常は間接目的語としてはたらく代名詞ですが,ここでは,当該の事態に強い関心があって,しかもその事態によって何らかの利害を被る人物を表わす語として投入されています。だから,迷惑じゃなくて利益になるようなことでもいえるんですね。例えば,
(3) Lo llevas a la señora. (君がご婦人にそれを持っていく)
という文に「me(私に)」を入れて,
(4) Me lo llevas a la señora.(君が私にご婦人にそれを持っていく
=ご婦人にそれをもってってくれない?)
という軽い依頼の表現にすることもあります。「君がそれを婦人に持っていく」ことがわたしの利益になるというわけで,こんな使い方もあるんですね。
あと,最近,学会では,インドネシア語にも「はた迷惑の受身」があるということで,発表している人がいます。ただ,日本語のように,「-られる」のような1形式がすべての受身文に共通に用いられるわけではなく,いくつかの形式を使い分けているようです。ですので,その形式自体,「受動(受身)」の形式と考えられるのか,慎重に観察する必要があると思います。
大分話が逸れていってしまいましたが,とにかく,日本語には「はた迷惑の受身」という面白い受身文があるというわけでした。
しかし,近年になって,この「はた迷惑の受身」(間接受動)vs.「まともな受身」(直接受動)が必ずしも根本的な2分ではないことが気付かれ始めました。つまり,受身文には,もっと根本的にことなる2つのタイプがあって,「はた迷惑」vs.「まとも」は,この1タイプにおける下位分類であると考えるのが妥当だという議論です。それは次回お話しすることにします。
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