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現代言語学の流れ(私見) [一般言語学]

文法研究はアリストテレスの時代からあったわけですが,言語学という学問が学問として確立したのはやはりソシュール以降です。当時は「学問である」と認められるために「客観主義」であることに躍起になってました。だから,音声学・音韻論の研究がまず進んで,そして特にアメリカは形式主義の道を進んでいきました。

言語の本質は究極的には「意味」の追求にあるべきだけど,「意味」というのは往々にして主観的になりがちです。だから,意味と形式を切り離して,より客観的に語れる形態論や統語論の研究が進みました。

そこに現れたのがチョムスキーで,チョムスキーは統語論(文の構造)の研究に革命をもたらしました。それまで,「文とは何か」で議論が止まってしまっていた統語論に,文の定義はひとまず置いといて,文とはこんなシンプルな,エレガントな構造に分析できると,とりあえず文の実際の構造分析に乗り出したのです。その結果,それまで気づかれていなかった様々な統語規則が明らかになりました。チョムスキーは,意味とは切り離して,純粋に統語構造だけを分析できると提唱した人です。

でも,やっぱり行き詰ったんですね。意味を考えない文法研究には無理があるとみんな気づき始めた。それで,生成意味論という研究分野が発足しましたがすぐにダメになって,その中のラネカーとかレイコフという人たちが,今勢力を拡大しつつある「認知言語学(認知意味論,認知文法)」なるものを確立していきました。これは,今まで立ち遅れていた「意味」の研究に重点的に焦点を当てた研究です。

認知言語学の人たちがやっている意味の研究が従来の意味論研究と異なるところは,反チョムスキーということでいろいろあるのですが,ともすれば主観的になりがちな意味の記述を,記述のための道具や定義を徹底させて統一させようというところかと思います。

しかしながら,いずれにしても,統語構造と意味とを切り離しているところには変わりないんですね。

アメリカ以外の国では,少なくとも日本では,言語学を「意味論,形態論,統語論」みたいに分けたりしていませんでした。日本の文法研究は,ずっと「語論」か「文論」かが基本でした。
つまり,語の形(形態)と意味のことを研究するのか,文の形(統語構造)と意味のことを研究するのか,という分類です。
言語学にとって,形式とその内容(意味)は常に不二であり一体の関係で,切り離してしまっては言語研究にはなりません。形式だけに偏れば,数式で扱える言語のごく限られた部分だけを取り上げ,多くの難しい,しかし本質的な現象を切り捨てることになるし,意味だけに偏れば,思弁的な,むしろ哲学の研究になってしまいます。

しかし,アメリカではまだまだ,これらを切り離した理論を方法論とする研究が大半です。例えば,先日の言語学系の学会でも,彼女はロンドンで言語学を研究している人でしたが,わたしがヴォイス(態)について研究してると言ったら,「ヴォイスを統語論から研究してるんですか,それとも意味論からやってるんですか」と聞かれました。日本語学会ではこういう質問をされることはまずありません。

アメリカが構造と意味を統一させた本来の文法研究の方法論を確立するにはまだ少し時間がかかりそうです。でも,最近,Goldbergらが「構文文法論」という理論を提唱し始めました。彼女らの理論などはかなり統語構造と意味を結びつけてきていると感じます。ただ,何を構造の要素と考えるのかなどが,まだまだ議論が浅いと言えます。でも,できるだけ説明の道具立てをきちんと整えようという姿勢はさすがです。

理論のことばかり書きましたが,本来は言語事実の記述があってこその理論ですね。言語の記述と理論は常にアウフヘーベンの関係にあります。でも,本当の記述とは何かと考えると,実は理論以上に難しいところがあります。。


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